カテゴリ: 旅行・散歩・グルメ
ウクライナ美術のモダニズム:1900~1930年代
今般の英国出張中、ロンドン中心部を歩いていたところ、王立芸術院付属の美術館で、「In the Eye of the Storm:Modernism in Ukraine, 1900–1930s」という企画展をやっているのが目に留まった。美術に関しては完全な素人ながら、地域研究者として観ておくべきだろうと思い、後日時間を見付けて見学してみた。
王立芸術院のこちらのページに、展示の趣旨・概要は出ている。説明を抄訳しておくと、
1900年代から1930年代にかけてウクライナで制作された画期的なモダニズム芸術に驚嘆せよ。
ウクライナのモダニズム運動は、崩壊する帝国、第一次世界大戦、独立の戦い、そして最終的なソビエト・ウクライナの成立を背景に展開された。このような大変動にもかかわらず、この時期は大胆な芸術的実験が行われ、ウクライナの芸術、文学、演劇が真に繁栄した時代となった。
この時代にウクライナに存在した様々な芸術様式と文化的アイデンティティを紹介するこの展覧会は、ウクライナの現代美術に関する英国で最も包括的な展覧会になる。油絵、スケッチからコラージュ、劇場デザインまで、65点の作品をご覧いただきたい。作品の多くはウクライナ国立美術館とキーウのウクライナ演劇・音楽・映画博物館から貸し出されたものである。
カジミール・マレヴィチ、ソニア・ドローネ、アレクサンドラ・エクスター、エル・リシツキーといったアーティストから、オレクサンドル・ボホマゾフ、ミハイロ・ボイチュークといったあまり知られていないアーティストまで、それぞれがこの国の芸術と文化に忘れがたい足跡を残した。
私としては、やはりウクライナ国民史という観点からの関心となる。個人的には、過去に存在したものを、なんでもかんでも、今日のウクライナ・ナショナリズムに結び付けるようなアプローチには、疑問を覚える。それでも、かつてこの地に存在した芸術運動と、それが秘めていた可能性を掘り起こすことには、意味があるだろう。この企画展は、声高に政治的な主張をするのではなく、作品に語らせることで、ウクライナの問題を問うているように思えた。
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調査出張でロンドンに来ました
そんなわけで、申し上げるのが遅れたが、調査出張で英ロンドンにやってきた。ロシア情勢等に関し現地の有識者と意見交換をするのが主な目的である。
ロンドンは、1998~2001年のベラルーシ駐在時代に、何度か訪れている。当時、ミンスクの娯楽や消費生活はきわめて貧弱なものだったので、たまにいくロンドンが唯一の楽しみだった。ただ、ここに来るとカネに羽が生えたように散財し、ミンスクの1カ月の生活費をロンドンでは1日で使うような感覚だった。しかし、2001年に日本に帰任して以降は、一度も英国を訪問する機会はなかった。だから、ほぼ四半世紀振りの英国となる。
さて、今回の渡英で、とにかく気を揉んだのが、台風の影響だった。金曜、土曜くらいの時点では、台風が関東を直撃する勢いで、水曜に私の乗る羽田~ヒースロー便がまともに飛ぶとは、とても思えなかった。ところが、台風が急に西に進路を変え、しかもノロノロになったので、結果的に昨日は札幌も羽田も晴天であり、フライトは順調そのもので、何なら予定より30分くらい早くヒースローに着いてしまった。人間、ツイてない時もあれば、ツイてる時もあるものだなと、しみじみ感じた。台風の被害を受けている地域の皆さんは、引き続きどうぞお気をつけてお過ごしください。
ところで、これまでロシアやヨーロッパに飛んできた感覚で、当然のことながら今回の羽田~ヒースロー便も西回りだろうと思っていたのだけど、実際にはアラスカ~カナダ北部~グリーンランド~アイスランドといった上空を通過し、大西洋を越えて英国に到着するルートだったので、驚いた。個人的に、大西洋を越えたのはたぶんこれが初めてだと思う。さすがにかなりの長旅だったな。
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沿ドニエストルの障子に目あり
モルドバ出張で人生を取り戻した
モルドバのスープ「ゼアマ」
こっちに来てからチョコバーとカップ麺ばかり食べているような気がしたので、昨日の昼は訪問先のバルツィ市でちょっと良さそうなレストランに入ってみた(と言っても会計は10ドルくらいだったが)。
モルドバでは「ゼアマ(Zeama)」というスープが味噌汁的な伝統料理になっているらしく、それを食してみた。鳥肉のほか野菜、ジャガイモ、ヌードルが入っており、サワークリームを加えて食べる。ロシア圏にもよくあるブイヨン風のチキンスープと一見似ているが、若干酸味があるのが特徴のようだった(サワークリームを入れる前から酸味がある)。
後は、これは伝統料理なのかどうかは分からなかったが、盛り合わせのメイン皿。
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モルドバ共和国の「国旗の日」の式典(たぶんそのリハーサル)
4月23日、面談の帰りにモルドバ政府庁舎の前を通りかかったところ、面白い光景に出くわした。どうも国旗を称えるセレモニーのようである。ただ、指導者のような人が子供に指示を出したりしていたので、これは本番ではなく、リハーサルではないかと思われた。
ホテルに帰って調べてみたところ、こちらのページに見るように、モルドバでは1990年4月27日に現在の国旗が制定され、それにちなんで2010年に4月27日が「国旗の日」として制定されたということだった。というわけで、おそらく私の勘は正しく、私が目撃したのは、4日後に行われる「国旗の日」式典のリハーサルだったのだろう。リハーサルでも、見ていて充分に面白かったので、上掲のとおりYouTubeにアップした次第。
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4年振りの海外、26年振りのアメリカ
アラスカ現地調査の際に見かけた野生動物
そんなわけで、アラスカでの現地調査が終わろうとしている。移動でバタバタするので、本日のブログは、アラスカ現地調査の際に見かけた野生動物の写真だけお目にかけてお茶を濁すことにする。
まず、氷河を見学に行った際に、船上から見えたラッコ。ラッコは割とありふれた存在らしく、個体数は多そうだった。ただ、岸の近くではなく、湾の真ん中あたりに漂っているのが、少々意外だった。あんな深いところでは、エサの貝とかをとりにくいような気がするのだが。
あとは、北極海に面したアラスカ北岸のノーススロープという地域にあるプルードベイという石油の街の写真になる。まず、これはレアだそうだが、ジャコウウシの群れを見かけた。手前に見えるのは石油パイプラインで、こうした野生動物の通行を妨げないように、地上から浮かせて設置されている。
次は比較的ポピュラーで、カリブー(北米のトナカイ)は結構見かけた。季節によってはもっと大群も見ることができるはずだが、今回我々が目にしたのは群れではなく、はぐれ個体ばかりであった。
最後に、ホッキョクグマにも遭遇したので、その写真もお目にかける。ただ、案内の人がシロクマだと言っていただけで、私は良く分からなかった。下の写真で、左下に寝そべっているのがシロクマだというのだが、本当だろうか。場所は、石油採掘のために作られた人工島だったのだが、果たして。
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アラスカのホテル事情でカルチャーショックを味わう
海外出張中につき、ロシア・ウクライナ情勢のフォローができておらず、大したネタもないのだが、一応、一日一更新を心がけている当ブログなので、よもやま話を。終盤に差し掛かったアラスカ出張で感じたこと。
アラスカで3つのホテルに泊まったのだが、どのホテルも酷い。値段だけ高く、中身が追い付いていない。一泊300ドル以上払わないと、まともなホテルにありつけないのではないかという印象で、大学の貧弱な予算ではとても追いつかない。
とにかく、備品、アメニティの類がほぼ存在しない。私は、30年くらい前であれば、旅行に湯沸かし器、スリッパ、シャンプー等々、色々持って行ったが、最近はどんな国のホテルに行っても、最低限のものは部屋に必ずあるので、余計な荷物は持参しないようになっていた。しかし、今回のアラスカの一連のホテルは、せいぜいドライヤーがあるかなという程度。
WiFiについてのホテル側の意識の低さにも驚かされた。なくはないのだが、部屋にきちんとパスワード等の利用案内が出ていない。フロントに訊きに行くと、パスワードを口頭でまくしたてられたり、殴り書きのメモを渡されたりする。ホテルの職員は、低賃金のジャンクジョブということなのだろうか、だいたい移民がスタッフなので、対応が心許ない。
これはアラスカだけの現象なのだろうか、それとも米国全体がそうか? 11月に東海岸の出張があるので、その時に確かめてみたい。
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2.24問わず語り ―誰も訊いてくれないので自分で語る
あれだけ「ピョートル推し」だったポルタヴァの戦い博物館はどうなったのか?
色んな締切や業務に追われて、首が回らない状況である。多重債務者というのは、こんな心境なのだろうか。
なので、ブログは手抜きになるのだけど、このほど、我がセンター内でウクライナ史、というか正しくは現在ウクライナという国になっている地域がどんな歴史を歩んできたかについて議論する機会があった。その中で、発表者が北方戦争、ポルタヴァの戦いに言及していたので、そう言えば以前、ウクライナ中部にある「ポルタヴァの戦い歴史博物館」を見学したなということを、思い出した。
そこで、自分が博物館で撮った写真を見返したりしてみたわけである。それで改めて感じたのは、ポルタヴァの戦い歴史博物館、完全にロシアのピョートル大帝が主役の博物館だったな、ということだった。印象としては、6割くらいピョートル博物館だったな、という感じである。まあ、ポルタヴァの戦いというのは、ピョートル大帝のロシア軍がスウェーデンを撃破した戦いであり、ウクライナ・コサックを代表するマゼーパは脇役的な登場人物なので、展示が「ピョートル推し」になるのは自然だが。
以下に見るように、ウクライナ地域を代表するフメリニツキー、マゼーパの展示もあるものの、少々押され気味だった印象だ。
ロシアが全面軍事侵攻を開始して以降、ウクライナではロシア文化の排除が進んでおり、それは歴史面にも及んでいる。たとえば、昨年オデーサで、ロシアの女帝エカテリーナ2世の像が撤去されるという出来事があった。ふと思ったのは、ポルタヴァの戦い歴史博物館は、今はどうなっているのかということだった。オデーサではエカテリーナ2世像を撤去すればある程度ロシア統治の痕跡は消す効果があるかもしれないが、あれだけ「ピョートルが主役」だったポルタヴァの戦い歴史博物館からピョートル関連の展示を撤去したら、博物館がスカスカになってしまう。マゼーパを主役にポルタヴァの戦いの歴史を書き換えるのにも、限界があろう。となると、ポルタヴァの戦い歴史博物館自体を閉鎖することになるのか?
これは、単なる素朴な疑問である。博物館の今については、調べれば分かるのだろうが、今はその時間がない。
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北海道探訪の第一歩として中標津を訪問
皇太子ニコライが襲われた大津の地
ドネツク・マリウポリの思い出
私はウクライナのドネツク州に一度しか行ったことがなく、それは2007年12月のことだった。
ドネツク一帯の石炭資源が注目されるようになったのが、17世紀末から18世紀初めのピョートル大帝の時代。1779年、アレクサンドロフカという村が当地に設けられ、最初の炭坑がいくつか出来た。その後、石炭産業は拡大し、それを活用した鉄道レールの生産工場が当地に建設されることに。そして、1869年、その利権がウェールズ人実業家のジョン・ヒューズに売却された。ヒューズは「ノヴォロシア石炭・鉄・レール生産会社」を設立、それを中心とした「ユーゾフカ」という街がつくられ(「ユーゾフカ」は「ヒューズ」のロシア語発音にちなむ)、これが現在のドネツク市の始まりとされている。
上の写真は、ドネツク冶金工場に石炭が運び込まれる様子。ここは、かつてジョン・ヒューズが設立した工場の後継企業に他ならず、街の南側の広大な領域を占めていた。
ドネツクでは、徒歩で街の中心部を闊歩するのもさることながら、街の外れにあったりする工場などを見て回りたかったから、タクシーが重宝した。たまたま拾ったアンドレイという 名前のタクシー運転手が面白いやつで、経済や地元の事情に通じており、彼の話から学ぶところが大だった。何でも、以前はいくつかのカジノの支配人を務めていたそうで、若い割には世の中の表と裏をよく知っている男だった。
工場ではないが、下の写真は鉄道の駅舎。100万都市の中央駅にしては、小規模な印象だった。
運転手アンドレイの案内が非常に有益なので、土曜日に予定していたクラマトルスク市への訪問も、彼に頼むことにした。クラマトルスクは、ドネツクから北西方向に車で2時間ほどのところにある中規模の都市。機械産業の集積地であり、州都のドネツク市を見ただけでは分からない地方経済の苦しい実情を探りたいという思惑があったのだが、予想に反し、クラマトルスクもなかなか景気が良いようで、スーパーマーケットや家電店などの出店ラッシュに沸いていた。写真はクラマトルスクの中核企業、ノヴォクラマトルスク機械工場。
クラマトルスクを訪問したあと、ちょっと欲張って、一路南に向かい、ドネツク州のもう一つの重要都市、アゾフ海に面したマリウポリも視察した。アンドレイはマリウポリでタクシー運転手をしていたこともあるそうで、手際よく見て回ることができたが、それでもマリウポリ視察を終えた夕方頃には、辺りはもう真っ暗。マリウポリの港は思ったよりも小規模で拍子抜けだったが、大手鉄鋼メーカーの「イリチ記念製鉄所」 および「アゾフスターリ」の雄姿は壮観だった。地球環境の危機が叫ばれる御時世に、煙をモクモク上げる工場を見て喜んではいけないのかもしれないが、ウクライナ経済の脈動を目の当たりにしたようで、満足感を味わった。
下に見るのは、イリチ記念製鉄所。巨大工場なので、全体を写真に収めるのが難しい。
これまた巨大なアゾフスターリ。煙突が勢いよく煙を吐き出す。
ところで、当時私は、黒海というエリアの研究に没頭しようとしていたところだったのだけれど、実を言うとこの2007年の時点では、黒海を自分の目で見たことが一度もなかった。このドネツク出張で、黒海に連なるアゾフ海に面したマリウポリを視察することになって、ようやくその念願が叶うかと思われた。しかし、その話をアンドレイにすると、「アゾフ海は黒海の一部ではなく、まったく別物。混同してはダメ」とのこと。彼に言わせると、アゾフ海は淀んだ内海であり、あんなところで喜んで泳ぐのはロシア人くらいで、ウクライナ人にとって海と言えば絶対に黒海なのだ、とのことだった。下の写真はアゾフ海に臨むマリウポリ港で、ピンボケで恐縮。
あれから十余年。この地域が21世紀の国際政治の火薬庫になるとは、あの頃は思いもしなかった。
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ミンスク旅客機強制着陸事件で甦るルジャヌィの思い出
人気爆発! 日本を魅了するユーラシア・グルメたち
GLOBE+に、「人気爆発! 日本を魅了するユーラシア・グルメたち」を寄稿しました。
最近、旧ソ連諸国の料理や食品が日本市場に紹介され、評判になることが多いなと感じます。シュクメルリに、チキンキエフに、スィローク。今回はそのあたりの談義をとりまとめてお送りしています。
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かつてモスクワに「友好」という名の書店が存在した
GLOBE+に、「かつてモスクワに『友好』という名の書店が存在した」を寄稿しました。
最近、ふとしたきっかけで、往時のモスクワにあった「ドルージバ」という書店のことを思い出しました。「ドルージバ」はロシア語で「友好」を意味し、ここはソ連にとって社会主義陣営の友好国だった東欧諸国などの書籍を扱う専門店でした。今回のコラムでは、この書店の思い出と、それにまつわる雑感を語っております。
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アララト社の「平和の樽」 アルメニア・アゼルバイジャン紛争の解決を祈って
以前からナゴルノカラバフの領有をめぐって対峙していたアルメニアとアゼルバイジャンの間で、昨日、本格的な武力衝突が始まってしまったようだ。
それに関連して、以前書いた小文をリサイクルしてお目にかける。『ロシアNIS調査月報』の2016年6月号の表紙に上掲のような写真を使い、その紹介文として書いたものである。
2015年9月、個人的に初めてアルメニアに現地調査に趣いた際に、有名なブランデー醸造会社のアララト社の工場を見学する機会があった。アルメニアの象徴とも言えるアララト社には、数多くの外国元首も訪れており、貯蔵されている多くの樽の中には、プーチン大統領の樽、ルカシェンコ大統領の樽といった具合に、VIPたちのキープ樽もあった。
そして、これはかなり有名だと思われるが、見学コースには「平和の樽」というものも展示されていた。今号の表紙の写真は、それを撮影したものである。アルメニア人とアゼルバイジャン人が支配権を争ったナゴルノカラバフ紛争の解決を願って樽詰めされたものであり、同紛争が最終的に解決したあかつきに開けて飲むことになっているそうだ。樽の後ろに置かれているのは、向かって右からアルメニア、ナゴルノカラバフ、米国、ロシア、フランス、そしてアゼルバイジャンの旗(米・露・仏はナゴルノカラバフ紛争調停グループのメンバー)。なお、写っている人物は案内してくれた女性である。
一聴すると美談のようだが、ナゴルノカラバフ紛争の最終的な解決とは、具体的に何を意味するのだろうか? 本気で紛争を解決するのであれば、アルメニアの側にこそ、努力すべき点が多いのではないか? 質問が喉まで出かかったが、ブランデーの甘い香りが漂う中で訊くのは無粋に思われ、やめておいた。
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虹とコサギ
実は現在、遅い夏季休暇中であり、とある地方都市に滞在している。なので、研究とは関係のない話だが。
昨日、歩いていたら、空に虹がかかっていたので、それを眺めていたら、白いサギが飛んできた。電線にとまったので、写真を撮ろうとしたら、また飛び立ってしまい、結果的に虹とサギがオーバーラップする、あざとい構図に。
飛んで行った方向の川に行ったら、そのサギがいた。シラサギの中でも、クチバシが黒いので、これはコサギだろう。
あまり人に言ったことがないが、実は野鳥観察が趣味の一つである。といっても、それ目的で一眼レフカメラ担いで撮影に出かけていくような本格派ではなく、街で見かけたちょっと珍しい鳥を眺める程度。
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私とベラルーシの出会い
むかしあるところに書いた原稿の一部をリサイクルし、私とベラルーシの出会いについて語ってみたいと思います。
やや私事にわたるが、私とベラルーシという国の出会いについて述べさせていただきたい。私がこの国を初めて訪れたのは、1994年7月のことであった。所属する団体の仕事で、当国の経済事情を調査するのが目的である。ベラルーシ入りする直前、私はモスクワであるロシア人から、最新のニュースを聞かされた。「昨日行われたベラルーシ大統領選挙で、ジリノフスキーのような人が勝ちました。」
ジリノフスキー氏とは、ロシア自由民主党という極右政党の党首で、そのスキャンダラスな言動はたびたび内外のマスコミを騒がせている。日本で言えばさしづめ……。まあ、言わぬが華だろうか。ただ、ロシア政界でジリノフスキー氏はあくまでも個性派の名脇役といったところであり、現実に政権の座に近付いたことは一度もない。「ジリノフスキーのような人」が本当に大統領になってしまうとは、一体どんな国なのだろうか。私は、まだ見ぬベラルーシに思いを馳せた。
ところが、実際に行ってみると、季節が良かったこともあって、ベラルーシは平和そのものであった。とても、怖い大統領を選出したばかりの国とは思えない。ちなみに、その怖い大統領はルカシェンコ氏といって、のちに「欧州最後の独裁者」と呼び称されるようになるのだが、その時はまだ国際社会も、私自身も、彼のことをよく知らずにいたのだ。
初めてのベラルーシで一番驚いたのは、その紙幣である。一応、独自通貨らしきものがすでに導入されていたのだが、子供銀行のお札のようで、デザインには偉人ではなく、何と動物の絵が用いられていた。それに、実際に支払をしようとしたところ、計算がまるで合わない。よく話を聞いてみると、インフレが激しいので、「各紙幣にゼロをひとつ足して読むことにしている」と言うではないか。日本の生真面目な経済専門家3名は、どうすればそんな荒っぽい通貨政策が可能なのかと、ひたすら首をかしげていたのである。
「それにしても、何だかよく分からない国だなあ」。夕食前のひととき、私はホテル・プラネータの窓から、首都ミンスクのどこか間延びしたような風景を眺めていた。緯度の高い当国のこと、外はまだ昼間のような明るさである。いくら勤務先の事業対象国の一つであるとはいえ、そんなに何度も来るような国ではない。この風景を目に焼き付けておこうと思った。
旧ソ連のホテルではだいたい、部屋の壁に昔風のラジオが据え付けられている。それが目に止まったので、何の気なしにスイッチを入れてみた。すると、不意に力強い合唱が耳に飛び込んできた。どうやら、ベラルーシの民謡のようだ。それは、今まで聴いたこともない旋律であり、響きであった。私の知っているロシア民謡とは明らかに異質のものだ。まるで大地から湧き上がってくるようなその歌声を聴いたとたん、窓外の景色すら違って見えてきたから不思議である。
それから4年後の1998年春、私は在ベラルーシ日本大使館の専門調査員として働くことになった。大使館とホテル・プラネータは隣り合っているので、「目に焼き付けた」はずの風景を、それから3年間も毎日見て暮らすはめになったのである。2001年に日本に帰国して以降も、何度かベラルーシを訪れ、今や同国についての著作なども発表する身になった。
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ロシア料理の一番人気はブリヌィらしい
忙しく、ブログのネタに困った時に、ロシアのメディアの図解資料を紹介してお茶を濁すということを、時々やる。今回は、こちらのページに、ロシア人の好きなロシア料理・嫌いなロシア料理というものが出ていたので、それを拝見してみる。
赤っぽい色が好きという回答、青が食べたくないという回答であり、赤の比率が高い順に整理すると、以下のようになる。
- ブリヌィ:94%
- ペリメニ:90%
- ピロシキ:89%
- オクローシカ:81%
- ラステガイ:80%
- 黒パン:79%
- ザワークラウト:75%
- カツレツ:73%
- プリャーニク:68%
- シチー:62%
- 肉のゼリー寄せ:39%
うーむ、ボルシチもサリャンカもウハーもビーフストロガノフも入っていないが、どう理解したらいいのか? まさか、ボルシチはウクライナのものだと認めたのだろうか。いずれにしても、個人的には粉ものが苦手であり、ブリヌィのようなお菓子っぽいものがトップに来る感覚が、どうもピンと来ない。上に挙がっているもののなかでは、シチーなんか結構好きだが、順位はずいぶんと低い。
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ロシア製品もここまで進化! 虎視眈々と日本市場を狙う企業
GLOBE+に、「ロシア製品もここまで進化! 虎視眈々と日本市場を狙う企業」を寄稿しました。
ロシア政府は「非原料・非エネルギー商品」の輸出を拡大するために、「ロシア輸出センター」という国策会社を設け、様々な輸出支援策を講じています。それには海外におけるロシア製品のプロモーション活動も含まれており、このほど日本でも関連行事が開催されました。2月27、28日に、東京駅近くの会場で、ロシア輸出センターとロシア郵便の主催による「ロシア商品フェア in Tokyo 2020」が開催されたものです。私もその様子を見てきましたので、今回はそのレポートです。
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ロシアのペルミと日本の千葉を結ぶ2つの絆 ロシアの街物語(11)
GLOBE+に、「ロシアのペルミと日本の千葉を結ぶ2つの絆 ロシアの街物語(11)」を寄稿しました。
1月17日に国際地質科学連合は、78.1万年前から12.6万年前の地質年代を「チバニアン(千葉時代)」と命名すると決定しました。筆者はロシア専門家ですので、地名から地質年代が名付けられたというと、ロシアのペルミから名付けられた「ペルム紀」のことを、真っ先に思い浮かべます。さて、この地質年代という共通点の他に、もう一つ、千葉とペルミの繋がりがあるのですが、それは何でしょうか?
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ロシア都市探訪記録
今般、自分のHP(このブログじゃなくて公式HPの方)を更新しようとしたら、恐ろしいことに気付いた。市井の善良な市民の皆様にはかかわりのない話だが、ウェブサイトを管理する上で、「テンプレート」という大元のようなファイルがあり、そのテンプレートファイルを修正すると、それに合わせて他のページも自動的に共通様式で修正されるようになっているのである。ところが、今般、そのテンプレートファイルを修正しようとしたところ、ファイル自体がどこにも見当たらないのである。原因にはまったく心当たりがない。今は多忙で抜本的な対策がとれないので、細かいことには目をつむり、可能な範囲でHPを更新していくしかない。
というような話はどうでもいいとして、マンスリーエッセイ「ロシア都市探訪記録」を書きました。先日、GLOBE+に、「まだだいぶ遠いロシア全地域制覇への道」というコラムを書き、これは要するに、自分はロシアの全83地域(クリミア共和国とセヴァストーポリ市も入れれば85だが)のうち、これまでいくつを訪問したことがあるかという談義だった。それで、くだんのコラムを書いた時に、州や共和国といった地域のレベルだけでなく、訪問した都市についても語ろうかと思ったのだけど、コラムが長くなりすぎるので、やめておいた。そこで、今月のエッセイでは、コラムでは割愛した訪問都市の一覧を掲載してみた。
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まだだいぶ遠いロシア全地域制覇への道
GLOBE+に、「まだだいぶ遠いロシア全地域制覇への道」を寄稿しましたので、ぜひご笑覧ください。
新年第1回のコラムは、まだお屠蘇気分が抜け切っていないということで、シリアスな内容ではなく、気軽な話題をお届けいたします。筆者はここ15年くらい、所属団体の業務として、ロシアの地域開発、経済特区、工業団地を調査する事業を、毎年のように担当してきました。その現地調査のために、ロシアの地方を訪問する機会が、数多くありました。気付けば、結構な数のロシアの地域を訪れてきたなあという感じがします。ですので、今回のコラムではその行脚の記録を披露してみたいと思います。
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「イワン・チャイ」って知ってますか?
HP更新しました。マンスリーエッセイ「『イワン・チャイ』って知ってますか?」です。よかったらご笑覧ください。
個人的に、今年度はロシア北方地域の調査事業を抱えているので、9月と10月に現地調査に出かけ、結局「マンスリーエッセイ」でも年内はその土産話に終始することとなりました。ロシアの北方諸地域、シベリアなどでは、森の恵みが名物になっている場合が多いですね。土産物売り場を覗いてみると、ハーブティーが陳列されているのを、よく目にします。その中で、「イワン・チャイ」と銘打った商品が多いことに気が付いた、というお話です。
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「シベリア料理」について考えてみた
HP更新しました。マンスリーエッセイ「『シベリア料理』について考えてみた」です。よかったらご笑覧ください。
9月と10月にロシア北方地域を訪問して現地調査を行い、現地の食文化について関心を抱いたので、マンスリーエッセイでは3ヵ月連続でそのネタになります。今回は、「シベリア料理」について考察してみました。そもそも、「シベリア料理」というジャンルは存在するのでしょうか? あるとすれば、それはどんな料理なのでしょうか?
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サハリンの日本遺産 姿消す統治の名残
GLOBE+に、「サハリンの日本遺産 姿消す統治の名残」を寄稿しましたので、よかったらご笑覧ください。
サハリン南部には今でも、日本統治時代の遺産が、わずかに残っています。その一つに、かつて日本が敷設した軌間1,067mmの狭軌鉄道もありました。ところが、ロシアは2003年からサハリンの鉄道の軌間をロシア本土と同じ1,520mmの広軌に入れ替えるプロジェクトに着手。曲折を経て、このほど9月1日より、広軌による鉄道運行が開始されました。こうして、サハリン島における日本統治の名残が、また一つ姿を消しました。このニュースに接して、サハリンにおける貴重な日本遺産の風景を取り上げてみたくなりましたので(あくまでも私の限られた体験の範囲内ですが)、今回はこのテーマでお送りしております。
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変わるロシア国民の食生活
ブログのネタに困った時に使わせてもらう『論拠と事実』紙のウェブサイトに出ている図解資料。今回は、こちらのページに、1980年と2018年で、ロシア国民の主要食品の消費量がどう変わったかを示した図を取り上げてみる。
全体としては、一般的なイメージ通りの変化が起きており、パン、ジャガイモ、乳製品、玉子などの消費量が減り、肉、魚、野菜、果物などの消費量が増えるという結果になっている。もっとも、時代も経済システムも所得水準も変わった割には、そんなに劇的な変化ではないという気もする。そうした中、一説にはソ連時代の肥満の原因との指摘もあったジャガイモの消費量が、年間117kgから59kgへとほぼ半減しており、これが一番劇的な変化かもしれない。それから、果物・ベリー類が35kgから74kgに増えたのも、大きな変化だろう。ちなみに、この図ではスイカやメロンは「ウリ類」として、果物ではなくむしろ野菜の仲間として扱われている。
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