20120527sekai

 先日のエントリーで、『世界』6月号の沖縄特集号について触れたが、沖縄特集とは別に、原発問題に関してもいくつか記事が載っていた。そのなかで、寺島実郎氏の「戦後日本と原子力 ―今、重い選択の時」についてコメントしたい。

 一言で言えば、日本で脱原発は不可能だというのが寺島氏の意見である。なぜそれが不可能かと言うと、日本が米国の核の傘に守られており、なおかつ日米の間で「原子力共同体」とも言うべき構造が作られているからなのだという。寺島氏は、ワシントンでエネルギー専門家と議論していて、「米国の核の傘に守られながら、しかも日米原子力共同体に身を置きながら、日本は『脱・原発』を選択できると考えるのか」と指摘されたそうで、それが最も重い質問だったとして、「我々はこの質問に真剣に答えなければならない」としている。また、「原爆の登場からの歴史を再考しても分かるごとく、[兵器としての]核と原発はどこまでも表裏一体なのである」としている。

 寺島氏はしばしば「国際情勢通」と紹介されるが、私の理解するところ、要するに米国の政策エリートの潮流に精通しているということなのだろう。そして、それこそが「世界の現実」であり、日本はその現実を踏まえて対処しなければならないといった論法をとることが多い印象を受けている。この原発問題でも、然りである。

 しかし、本当に兵器としての核と原発は、常に表裏一体なのだろうか。私の理解するところ、好むと好まざるにかかわらず、世界は全体として核抑止によって均衡が保たれているわけだし、西側諸国は多かれ少なかれ米国の核の傘に入っているといっていいだろう。原発を利用する・しないは、そんなこととは関係なく、各国の主権的選択で決めるべきだし、基本的にそうなっているはずである。寺島氏が、その両者が「どこまでも表裏一体」と言うならば、もっと具体的に分かりやすくその構造を解説してくれないと、少なくとも私は納得できない。私には単に、寺島氏がワシントンでの見聞を金科玉条のように世の真理と受け止め、その伝達士の役割を果たしているようにしか思えない。

 また、寺島氏は、「『脱・原発』を目指しながら、日米共同で原発の機械機器を海外に売り込む路線にも正当性はない」としている。私は、この指摘には一理あると思うし、重要な問いかけだと思う。しかし、ここで寺島氏が考慮していない重要な要因がある。それは、日本が地震・津波大国であるという事実である。しかも、米国やロシアのように、核関連施設を配置できるような無人の荒野の類がふんだんにあるわけではない。このような国土の特性上、日本の国土では原発を断念するというのは充分に合理的な判断であり、そうした説明が国際的に理解が得られないとも思えない。原発輸出に関しては、私は道徳的には縮小していくべきだと思うが、そもそも寺島氏は「リアリストとして生きろ」ということを一貫して言っているわけだから、その論法から言えば、自国では原発を廃止しつつ輸出ではちゃっかり儲けるというくらいのしたたかさは、アリなのではなかろうか? こんなことにだけ道徳を求める態度は矛盾している。

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