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 先日、「夏休みに読んだ本シリーズ」と題し、この夏になぜか米国に関係した本ばかりを読んだという談義をしたが、その番外編。やはり夏休みに読もうと思ってKndleでダウンロードしたのだが、その時は他の本を優先したので後回しとなり、今般ようやく読み終えた本の話である。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(著)・三浦みどり(訳)『戦争は女の顔をしていない(岩波現代文庫)』がそれである。

 というのも、『戦争は女の顔をしていない』を、これまでなぜか読んだことがなかったのである。アレクシエーヴィチの他の作品はいくつか読んだが、なぜかデビュー作にして代表作のこれを素通りしてきてしまったのだ。最近、うちのセンターで迎え入れた米国の政治学者のO.ニコラエンコさんが戦争・革命における女性の役割という研究をしていて、もちろんウクライナでの戦争もあり、あるいはモルドバでもしかしたらサンドゥ大統領が戦争指導者になってしまうかもしれないとか、戦争と女性というテーマにつき考えさせられることが多く、遅れ馳せながら本作を読んでみたというわけだ。

 それで、読んでみた『戦争は女の顔をしていない』は、正直言うと、かなり私の想像と違っていた。私はタイトルから何となく、女性ならではの博愛的な立場から戦争の悲惨さを訴え、反戦的なメッセージを打ち出しているのではないかと想像していた。

 実際には、本書は反戦の書というわけではない。むろん、戦争の悲惨さは随所で描かれている。しかし、ナチス・ドイツがなだれ込んできて自分たちの街や村で殺戮や破壊を始めたわけで、ソ連の人々には銃をとって戦うしか選択肢がなかった。大祖国戦争はそうした戦いであり、戦争に賛成とか反対とかそういう次元の事柄ではない。私が事前に本書に抱いていたイメージは、いかにも日本人的な甘いものだったと、反省した。

 また、これも日本人の感覚だと、軍への徴集は国の側が(多分に一般市民の意に反して)強制的に行うものだというイメージがあると思うが、本書の筆致からは、大祖国戦争時のソ連では祖国を守るために多くの市民が自発的に軍隊に身を投じた様子が伺える。そして、本書の主人公である独ソ戦に従軍した女性たちも、ほとんどが、居ても立っても居られなくなり、その義務もないのに、あるいな年齢条件も満たしていないのに、自発的に軍に志願したり、極端な場合には勝手に現場に赴いて部隊に加わったりしたのである。

 したがって、戦争そのものや、女性従軍の是非を論じることが、本書の目的ではない。問題は、多分に男性の論理で成り立っている戦争に、女性が参加した場合、やはり不自然な適応を迫られ、それが従軍時だけでなく、その後の人生にも影を落とすことだろう。そして、戦後に彼女らを待ち受けていたのは、いわれのない偏見や中傷だったというのが、とても辛い。『戦争は女の顔をしていない』が描いているのは、そのような矛盾であった。


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