dugin

 こちらに見るように、ロシアの政治評論家A.マカルキン氏が、世代論の観点から思想家A.ドゥーギン氏について論じているので、以下要旨をまとめておく。

 ドゥーギンの主な政治的役割は、世代的な性格を帯びている。

 1990年代、社会のかなりの部分は、イデオロギー的な空白に陥った。共産主義は公式に放棄されただけでなく、信用を失った。この社会層は、リベラル思想も断固拒絶した。

 こうした状況下で、ドゥーギンは大衆受けするような形で地政学の受容を提案した。実のところ、ロシアの反欧米思想の多くは、欧米からの概念の拝借を基盤としている。地政学は、ソビエト人たちにとって、西側に権威が存在したこと(それらは1990年代には多くの反西側主義者にとっても尊敬に値した)と、難問(モロトフ・リッベントロップ協定やフィンランド戦争、アフガン戦争など)に回答を示してくれるその倫理相対主義によって、新しいものとして魅力的に映ったのだ。

 同じくらい重要だったのは、ドゥーギンが提示した具体的な地政学構図であった。アトランティスト(アングロサクソン)とユーラシアが、海と陸の対立構図を形成するというものである。こうした図式は、ロシアと米英の不可避的な対立関係を前提としている。ソ連の経験は、完全には否定されず、選択的に肯定された。

 かつてのソ連は、西側におけるイデオロギー的・組織的な味方を、左翼、「進歩的勢力」の中に見出していた。それに対しドゥーギンは、極右コミュニティーの中に仲間を見出そうとした先駆的な人物であった。イデオロギー面では、ドゥーギンはハウスホーファーだけでなく、権威主義的支配を正当化するシュミット、友敵二分論にも訴えた。組織面では、ヨーロッパの極右政治家や理論家と関係を築き始めた。それは、当時のジリノフスキーのようなお遊びや日和見主義的ではなく、かなり真剣に、今後何十年を見据えたものであった。

 国の崩壊や、職を失ったり賃金を何カ月も待たなければならない両親の不幸を自由主義のせいにする若者たち。ドゥーギンは、当時のそうした若者たちに読まれていたのだ。それから25〜30年が経過した。当時の若者は歳をとり、軍事・治安機関からメディアまで、様々な分野に進出している。地政学とアングロサクソン嫌いは、ロシアのテレビやネット空間にしっかりと定着し、マリーヌ・ルペンを身近に感じている。

 これは、ドゥーギンがロシアの政治的な意思決定に直接影響を与えているという意味ではない。それでも、現下ロシアの思想と(重要な点として)政治的な言語は、ドゥーギンの初期の著作から大きな影響を受けているのである。


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