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 最近で一番ビックリした話を披露させていただく。

 ロシアの『エクスペルト』誌を読んでいたら、ウクライナ・ゼレンスキー政権の主要幹部を紹介したくだりがあり、その中でミハイル・ポドリャクという人物が挙げられていた。記事によると、大統領府長官顧問として政権の中核に位置するポドリャク氏は、政治コンサルタントで元ジャーナリストであり、かつてはベラルーシで反体制メディアで働いたこともあって、それゆえにウクライナに追放された。ゼレンスキーの下で頭角を現し、現在では対ロシア和平交渉で枢要な役割を果たしている、とある。

 待てよ、ミハイル・ポドリャク……どこかで聞いたことがあるような。そうか、あの男ではないか。私がベラルーシ駐在時代に、インタビューをし、非常に印象深かったので、そのくだりをエッセイにしたこともある、あの男だ。まさか、あいつが、現在、ウクライナ・ロシア関係の、もっと言えば人類の命運も握っていたとは。なお、当然のことながら先方は私との面談のことなど忘れていると思うが、便宜的に「旧知の人物」というタイトルを付けさせていただいた。

 確かに、和平交渉の一連の写真を改めて見てみたら、そこには確かにポドリャク氏の姿があった。下の写真で握手をしている左側の人間が、ポドリャク氏である。この写真は、ベラルーシを舞台に行われた初期の交渉のはずだが、まさか本人もこんな形でルカシェンコの国に舞い戻ることになるとは、思ってもみなかっただろう。

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 というわけで、2004年に書いたエッセイを以下で再録するので、よかったらご笑覧ください。


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嗚呼、ミハイルよ!

 先日、ベラルーシのニュースを眺めていて、愕然としました。

 ジャーナリストのミハイル・ポドリャク氏がベラルーシから国外退去処分!

 ニュースによれば、ベラルーシの国家保安委員会(KGB)は6月21日、ミンスクを拠点とする『ヴレーミャ』紙のミハイル・ポドリャク副編集長(ウクライナ国籍)を国外退去させた。その理由は、偏向した報道、当局への挑発によりベラルーシの国益を損なったこと、また外国人の滞在に関する法令に違反したこととされている。KGBの職員がポドリャク氏を駅まで連れていき、同氏をウクライナ行きの列車に乗せた。今後ポドリャク氏は5年間、ベラルーシ入国を禁じられるという。ベラルーシ・ジャーナリスト協会は翌日この措置について抗議、ウクライナ外務省もベラルーシ当局に釈明を求めた。

 私がポドリャク氏に注目したのは、1999年頃だったと思います。当時の私は、在ベラルーシ日本大使館で、現地の新聞や通信社の配信記事に目を通し、ベラルーシ情勢をフォローする仕事をしていました。その頃、『ベラルーシ新聞(Belorusskaya gazeta)』という週刊紙に、毎週のように渾身の政治評論を寄せていたのが、ミハイル・ポドリャク氏でした。最近名前を見ないなぁと思っていたら、別の新聞に移っていたのですね。

 『ベラルーシ新聞』というもの自体、かなりどぎつい新聞なのですが(ロシア資本であることが関係しているようです)、そのなかでも、当時ポドリャク氏の書いていた記事は、「一体どこでそんなネタを仕入れてきたの?」と思わず唸るような内幕情報に満ちていました。ルカシェンコによる独裁が強まりつつあるベラルーシで、なぜこのような記事がまかり通るのか? 一体このポドリャクという記者は何者なのだろう? そもそもミハイル・ポドリャクなる人物は実在するのだろうか? いつしか私は、ポドリャクという人物が実在するなら、ぜひ会ってみたいと思うようになりました。

 そんな折り、東京から出張者があり、ベラルーシ情勢について現地の識者と懇談したいので、適任者をピックアップしてほしいというではありませんか。丁度その頃、『ベラルーシ新聞』のヴィソツキー編集長とも仕事上の接点ができたので、これは好都合ということで、ポドリャク氏との面談を編集長に依頼したのです。恐る恐るだったのですが、あっさりとOKが出ました。2001年3月のことです。

 面談の当日も、「本当に来るのだろうか?」と半信半疑なままでした。しかし、これがちゃんと来たんですねぇ。しかも、ミハイル君、まだ若く、なかなかの好男子。東京からの出張者は女性だったので、私としては一手柄立てた気分です。飛び切りの事情通の上に、男前なんですからねぇ。出張者はしっかり、ミハイル君と2ショット写真に納まっていました。

 「ミハイル・ポドリャクという人物は実在しないのではないかと疑っていました」。私がこう切り出したところ、彼氏は、「他の国の外交官にもよく言われますよ」と言って笑っていました。

 聞けばミハイル君、医学部出身で、救急医療の医者として働いていたのだが、周知のように旧ソ連では医者は薄給であり、割に合わないと考え、ジャーナリストに転身したのだという。当方から、「若いのに鋭い記事を書いておられる」と持ち上げると、「この仕事は歳とは関係なく、実力次第」と自信を覗かせていました。

 実はミハイル君、父はウクライナ人、母はロシア人という家庭の出身だそうで、1980年代後半まではウクライナのキエフに住んでいて、その後ベラルーシのミンスクに移り住んだとのこと。「今年(2001年)、私はベラルーシ国籍からウクライナ国籍に切り替えました。私は常に検察に目をつけられているのですが、外国籍だと、当局も迫害しにくくなるからです。実際、ウクライナ国籍にしてから、呼び出される回数が減り、より穏便になりましたね」。

 なるほど、自由に書いているようで、やはり締め付けはきついのか。

 とくに、ベラルーシの「第2の国家予算」として関係者の間で知られる「大統領基金」に話題が及んだ時には、さすがのミハイル君も次のように漏らしていました。

 「ルカシェンコの大統領基金については、危険すぎて、誰も書こうとしません。私自身も書く勇気はありません。どうやらルカシェンコはまだ政権に居残るつもりのようで、私自身もまだしばらくこの国で働かなくてはならないから……」

 つまり、この国では、言論の自由がまったくないわけではなく、ある程度は政権批判も可能であるが、越えてはいけない一線というのがあって、そういう間合いを計りながら、ジャーナリストは仕事をしているわけか。でも、何がよくて、何がいけないのか、そういう線引きというのは、外国人にはなかなか分かりにくいものだなぁ。ポドリャク氏と話をしてみて、私は一筋縄では行かないベラルーシのマスメディア事情を垣間見た思いがしたものです。

 さて、それから3年あまりの月日が流れました。私が今回のポドリャク氏の事件を憂慮するのは、単に自分の知っているジャーナリストが国外退去処分になってしまったからだけではありません。これまでも、『不思議の国ベラルーシ』で紹介したマルケヴィチ氏のように、ルカシェンコ政権への敵対的な姿勢をむき出しにするジャーナリストが弾圧されることはありました。しかし、ポドリャク氏は、当国の暗部に迫りつつ、越えてはいけない一線というものを見極め、現実と折り合いをつけながら仕事をしてきたジャーナリストのはずです。そのために国籍もウクライナに変えました。そのような人物すらも国外退去を迫られたということは、ルカシェンコ政権による言論弾圧が質的に新しいレベルに移行しつつあることを意味するのではないか。今後、独立系メディアに対しては、まさになりふり構わない迫害がなされていくということを暗示しているのではないか。私はそのような危惧を禁じえないのです。

(2004年7月1日)