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 うっかりスルーしてしまったが、昨日は1991年12月8日にロシア・ウクライナ・ベラルーシ3共和国の首脳がソ連解体について取り決めたベロヴェージ協定締結から30周年の記念日だった。

 ソ連解体前後の時期、ベラルーシではまだ大統領職が導入されておらず、ベラルーシの国家元首はS.シュシケヴィチ最高会議議長だった。私はベラルーシに駐在していた2000年、シュシケヴィチ氏にインタビューを試み、当時のいきさつなどの話を訊いた。その模様は、すでに色んなところでお目にかけているが、30周年を記念して、以下再録させていただく。

 ――あなたはエリートとして忠実なソビエト市民であったはずだが、いつ民族的自意識が目覚めたのか。たとえば、ベラルーシ語はいつから話すようになったのか?

 私は子供の頃はベラルーシ語だったが、のちにロシア語になり、さらに戦後の46~47年頃にはポーランド語を勉強し始め、74年には十分なレベルに習得し、東欧最古のクラコフのヤゲウォー大学で教鞭をとるまでになった。したがって民族的自意識は母乳とともにあった。他方、私はソ連の異論派であったことは一度もなく、ソ連の秩序に異を唱えたこともなかった。というのも、私はソ連社会の枠内で完全に合法的に、誠実に生き、他の人よりも多くの給料をもらい、ソ連の基準で言えば良い生活ができるということを、良く分かっていたから。最後の最後まで、私の仕事は引っ張りだこだった。
 しかし、私には心の中の反発があった。私の父は36年に逮捕され、シベリアからベラルーシに帰ってきたのは56年だった。48年に一時的に帰ってきて半年当地にいたことがあるが、また送られた。53年に最終的に名誉回復されたが。父は、共産主義の理念はすばらしいが、その執行者が不誠実なのであり、良い執行者がいたら理念は実施可能だと考えていた。私自身はそれを疑問視していたが、それを公言したことは一度もなかった。私は仕事で成功していたし。しかし私は党ノーメンクラトゥーラに媚びへつらったことは一度もなかった。党に下衆どもがいるのは分かっており、そうした輩とは関わり合わないようにしていた。
 私は66年に初めて外国に行き、それは半資本主義のユーゴだった。それは偶然であり、私は31歳の若い専門家で、世界的な学会向けに報告を出したところ、それが採用されて刊行された。ソ連代表団のメンバーは誰も報告をもっていなかったが、ちゃんとした専門家たちで、私は入っていなかった。その摩擦を解決するため、私は世界学会が開かれているのと同じ時にリュブリアナ大学に派遣されて講義を行うことになった。私がそこで見たものは、半資本主義ではあったが、ソ連よりはずっと良い国であった。しかし、帰国すると忙しい毎日が待っており、次に外国に行ったのは74年だった。交換教授としてクラコフに招待された。多分そこで、私の価値観の大きな変化が起こった。私は完全にポーランド語をマスターしている。私はクラコフでキリスト教の祭日に出会い、現ローマ法王が非常に生き生きとした、説得的な演説を行うのを聞いた。私を含め、多くの人が理解していながら、決心がつかなかったことについて、明快に語った。ポーランドでは皆公言していた。こうして、私の中に、たとえ最高の執行者がいようとも、共産主義の天国が現実化されることはないのではないかという疑念が芽生えた。その後、非マルクス主義的なものも含め、様々な本を読む機会があり、すでに80年代の半ばには、我々の体制にはまったく将来性がないという結論に達した。しかし私は、この悪の帝国をこれほど早く倒せるとは思ってもみなかった。

 ――そうした信条ゆえに、政治家になったのか?

 否、私が政治に携わるようになったのはまったくの偶然だった。専門の仕事がきわめて忙しく、私は講座長だった。しかし、1989年にソ連人民代議員大会の代議員選挙があった時に、私の選挙区では共産党候補への対抗馬がいなかったので、友人たちが私を担いだ。私は78年から党員だったが、この選挙で党は事実上、私を妨害した。私は不誠実な党員であったことは一度もなかったので、心外だった。最も不道徳なのは党幹部なのだということを悟った次第である。それでも私はこの選挙に勝ち、政治の世界に入った。そして、モスクワに行き、政治の世界に入ったが、そこで私が出会ったのは非常に進歩的で実務的で教育水準の高い人々であった。

 ――そして91年9月18日にベラルーシ最高会議議長に就任されたわけだが、ベラルーシが独立することが必要であり、不可避だという結論に達したのはいつか?

 私はそれを常に望んでいたが、それは長期的プロセスと考え、それが私の生きているうちに達成されるとは思わなかった。私はロシアの敵であったことも、ソ連邦の敵であったこともないが、いくつかの本を読んで、確かにロシアは諸民族の牢獄なのだということを理解していた。ロシアが拡張する際に行ったことは実質的に諸民族の植民地化である。しかし英国との違いは、英国が一定の文明、現地のそれよりも高度な文明をもたらしたということ。大英博物館に見られるように、野蛮な行為があったことも事実だが。それに対しロシアの振る舞いは、たとえばベラルーシにおけるそれには、有益なものは何もない。ロシアは膨張する際に、現地の幸福を願うのではなく、当地で君臨することを望んでいるだけだから。ベラルーシ文化、ベラルーシ語を尊重せず、ベラルーシ語を禁止した。あとになってようやく気付いたのは、ボリシェヴィズムはロシア帝国の延長であり、ベラルーシ文化、ベラルーシ性のすべてに対する圧迫になったということ。しかし、ベラルーシ最良の知性たちでさえ、ロシアの枠内におけるベラルーシの自治を求めるにとどまった。状況が至難であることを悟り、独立は夢想だにしなかった。カリノフスキーは自治を求めて倒れた。我々の党を創設した人々、たとえば1903年のルツケヴィチも最初は自治を求めたが、その後、ベラルーシ国家性を復活させることも考慮に値するという見解が結晶化した。
 ソ連の崩壊は私にとって大変喜ばしかった。ロシアがベラルーシの存在を承認する可能性が生じたから。実質的にそれがベロヴェージ原生林で起きた。ベラルーシが独立国家共同体(CIS)を創設する協定に調印したから。つまり、CISに加入する国すべてをロシアが独立国と認めたということ。その後、ロシアはこのことを後悔し始めたが。

 ――むろん、1991年の8月クーデターの失敗が、その前提条件をつくったのであろう?

 むろんである。私にはチームがなく、一人だった。しかし、私は政治的・経済的に働くことに成功した。ベラルーシ政府に入り、ベラルーシ体制を決定付けている人々とである。彼らとは実務的な間柄だった。したがって、クーデターが起きた時、私は即座に情勢を把握し、最高会議の招集を要求、私に同調する活発な議員も何人か現れ、最高会議の開催に漕ぎ付けた。最高会議議長はデメンテイで、私は第一副議長だった。最高会議の多数派はノーメンクラトゥーラで、彼らは変化を欲したが、私を議長に選出することには躊躇した。しかし、その後、それが解決策だということを悟った。しかし、私は幹部会でも、本会議でもマイノリティだった。

 ――貴殿は、ソ連解体を決めたベロヴェージ会談への参加で世界史に名を刻まれたわけだが、なぜ回想録を書かないのか。

 一つには、まだベラルーシでやり残した仕事があるから。また、他の会談参加者の回想を読むと、私に関する記述で、人間の空想力はかくも飛躍できるものなのかと驚くことが多い。私としては、そうしたものを見極めたいという気持ちもある。しかし、将来的には書くことになるだろう。

 ――あなたは最初エリツィンとクラフチュークを、会談というより、ベロヴェージ原生林での「狩り」に誘ったとの由だが?

 そのとおり、「狩り」にである。私はエリツィンを1991年10月21日に招待し、その後具体的な日程を調整しようということになった。誘ったのはノヴォオガリョヴォの会合の時で、ゴルバチョフが提案した連邦条約案を検討していた際だった。エリツィンと私はこれは受け入れられない案だという結論を出したが、その他の参加者は沈黙していた。そこで私はエリツィンを招待した。クラフチュークを招待したのは後日のことで、エリツィンと話をして、その方が理に適っているのではないかということになったから。しかし、私は彼らを、政治問題を解決するために招いたのではない。断じてそうではない。彼らを招いたのは、ベラルーシ政府の執拗な要求にもとづくものだった。実はベラルーシ政府はロシア側とのパイプが太くなかったので、こうした問題を交渉する場を設けるよう、ロシア指導部と良い関係にあった私に執拗に求めていたのだ。我々は一切通貨をもっていなかったので、石油・ガスの代金の決済をロシアに対して金銭で行うことができなかったから。石油・ガスがなければ、ベラルーシが凍死してしまうという構造があるので。まさにこの問題について話をつけるため、我々は集まった。ウクライナも。決して政治問題を解決するためではない。

 ――それにしても、「狩り」が運命的なものになるという予感すらなかったのか?

 なかった。私にはなかった。誰もが、参加者にはそうしたものがあったと言っているが、誠実に申し上げて、私にはなかった。実際に集まり始めた日までは。しかし、クラフチュークが飛行機で来て、私は彼と情勢について話をすると、私も、どうやらその先のことがありそうだということが分かった。詳しい交渉を行う時間はなかったが。クラフチュークは最初ミンスクに来て、私は彼を出迎えたのだが、数時間後にはベロヴェージ原生林で交渉を開始しなければならなかった。そこで私は、クラフチュークの飛行機に乗せてもらうよう、彼に頼んだ。30分ほどの道中、我々は話し合っていたのだが、この時点ではすでに、話題は概ね政治的なものだった。

 ――ソ連に引導を渡したのは、ベロヴェージ会談直前の12月1日のウクライナ国民投票で独立賛成が圧倒的多数を占めたことだと言われている。したがって、会談の時点では、ソ連の解体は不可避であるという雰囲気が広がっていたのでは。

 まず最初にバルト諸国の分離があった。さらに、ロシアを含め、すべての共和国が独立宣言を出した。したがって、その時点ですでに雰囲気、理解はあった。しかし、あなたのおっしゃることはまさにその通りである。私にとってウクライナの国民投票の最も重要な結果は、ウクライナに在住するロシア系住民2,000万のうち、ほぼ1,000万がウクライナの独立に賛成したこと。つまり、ウクライナに在住するロシア人が、ロシア帝国の枠内では生活の改善が望めないと見切りをつけたのである。この点こそ、私がクラフチュークと話をする上で、最も影響を受けたものだった。私はすでに国民投票結果について電話でクラフチュークに祝意を伝えていたが、今回改めて面と向かっておめでとうと言った。これは、非常に大きな一歩であった。
 私がいつも非難されるのは、1991年3月に国民投票があり、設問が不適切なまやかしの国民投票だったのだが、多数派がソ連の維持に賛成したということ。ルキヤノフ流の国民投票だった。ルキヤノフは政治陰謀の名人。ちなみに私は彼から、議会運営のノウハウを多く学んだ。
 ベロヴェージにおけるベラルーシの代表団には私だけでなく、ケビッチ、ミャスニコヴィチ、クラフチェンコも参加していた。その他、ベラルーシ政府の主立った人物はすべて参加していた。

 ――その役割分担は?

 それは単純で、ボリシェヴィキ、共産主義流である。つまり、私がすべて責任を負った。他のメンバーは、私の見解を公式的な立場として掲げた。エリツィン、クラフチュークに関しても同じだと思う。我々は皆、それを望まなくても、惰性によりボリシェヴィキのままだったのだ。これは我々の欠点だということを、私は分かっている。ケビッチは、私と違うことをしゃべることは一切できなかった。しかし、我々は、最も重要な文書に、6人が署名することを必要と考えた。したがって、主要条約にはロシア側からブルブリスとエリツィンが署名し、ウクライナはフォーキンとクラフチューク、ベラルーシはケビッチと私が署名した。しかし、何が起きたかという声明には、これは最初に世界に発表されたものだが、署名したのは3人。というわけで、我々3人が、ソ連の破壊者だとみなされている。

 ――やや脱線になるが、あなたはケビッチ氏と長く一緒に働いた。あなたが政治、ケビッチが経済という分担だったのか?

 それを「経済」と呼んではいけない。ハジャーイストヴァヴァニアというソ連の用語がある。つまり、行政指令体制が引き続き働いていた。そうしないと破綻し、全面的な無秩序になるから。ケビッチとその政府はその路線でやった。しかし、政治的決定を行うのには、必ず政府を説得しなければならなかった。政府が事実上最高会議の多数派を握っていたので。私が何らかの改革措置を講じようとする際に、ケビッチを呼ぶか、私が行って、それを説得する必要があった。私はそうした問題のいくつかを解決したが、それには政治問題も含まれている し、ハジャーイストヴォの問題も、軍事問題もあった。
 その実例として、第1に、私は最初からベラルーシからの核兵器の撤去を断固として支持しており、これは解決に成功した。第2に、より厄介な問題だったが、それは独自通貨の問題であった。しかし、ロシアが、他の共和国が貨幣面でロシアから収奪しているということで、ロシア自体が同様の措置に出たので、我々もそれを解決した。もっとも、ベラルーシは常にそれを後悔し、ケビッチは後戻りしようとしていたが。ベラルーシ通貨は激しく下落したから。第3に最も厄介な問題として、私は民営化の問題を決定しなければならないと考えていた。土地の私有化も含めてだ。形式的には法律が採択されたが、民営化はこまめな作業を必要とする課題である。政府はこの問題で真面目な対応をせず、若干のノーメンクラトゥーラ民営化が行われただけ。土地の私有化に関しては、最高会議側に理解が足りなかったが、政府を説得することはでき、最終的に自留地の私有化に関する法律が採択された。現在それがベラルーシの食糧をまかなっている。

 ――ベロヴェージで、ロシアの若手改革派が主導し、ウクライナの国民投票が最後の一撃となる中で、ベラルーシの役割はどんなものだったのか。単に会談場所を提供しただけか。コズィレフは、 最もソビエト的なベラルーシでさえソ連に見切りをつけたことが、ソ連に引導を渡したと言っているが?

 コズィレフにはそう言う根拠がある。ベラルーシはソ連の中で、表面的には、ソビエト的な指標では、最も経済的に成功した、最も科学が進み、規律があり、つまり最もソビエト的な共和国だった。しかし現実には、国民の生活はリトアニアやラトビアの方が上だった。ベラルーシの大工場は、市場条件では生きていけない。したがって、作動に時間がかかる地雷は、ベラルーシのそれが一番大きい。ベラルーシのもうひとつの特徴は、工業生産のうち軍需目的が55%を占めていたこと。世界価格でベラルーシの1人当たりGDPを算出すると、25,400ドルで非常に高かった。しかし、軍需産業がすべて崩壊すると、ベラルーシでは2,400ドル、ポーランドでは2,700ドルで、ポーランドより低いということになった。
 政治的には、ベラルーシは相当に反動的だった。200年にわたりロシア化され、ロシアの影響下に置かれてきたので。
 ロシアの若手改革派と、ウクライナの国民投票だけがベロヴェージ協定の中身を決定付けたと考えるのは誤り。確かに、ロシアには優秀なエリート政治家たちがいた。私は彼らのことを、これまでも、今も、これからも尊敬する。ガイダル、チュバイスらだ。彼らはハーバードの処方箋を採用したが、それをロシアの条件に適合させるのが至難だった。しかし私は、ソ連、ロシアに第3の道はないと考えている。第3の道は第三世界の道である。日本も欧米とはまったく異なっているにもかかわらず、その改革は市場原理に 沿ったもので、しかも自国の伝統を尊重しながらであった。ベラルーシも同様の道を歩むことができる。しかしベラルーシの場合、ソ連崩壊の時点で、政治・経済エリートの水準がロシアのそれよりも劣った。そしてポーランドに比べるとかなり劣った。私はベラルーシの同僚のことを侮辱するわけにはいかないし、彼らが知識を習得してくれるよう願っていた。私自身も毎日学んでいた。
 しかし、ベロヴェージ協定がロシアとウクライナによってのみ準備されたと考えるのは誤り。3カ国は作業チームをつくり、各国同じ数の代表が参加した。そして、12月7日から8日にかけての夜、このチームが協定案を起草した。作業チームは、彼らに対し指示のあった基本線にもとづいて、それを条約にふさわしいように法律的に定式化した。その基本線は、最初の宵に出来上がった。その基本線の眼目となったのは、第1に、「ソ連が地政学的現実として存在を停止しつつある」というもので、皆がそれに賛成した。第2に、テロリスト等が核兵器にアクセスすることのないよう、必要な措置をとるというもの。また、各国がより緊密な関係を保ち、国境ができるだけ開放されること。当時すでに税関の問題が発生していたから、これは当然のことだった。そして協定は、3カ国から同数が参加した作業チームによって1晩かかって策定された。我々は朝早くから、午後5時頃まで、条文を手直しする作業を続けた。私はこのプロセスをバレーボールと呼んだ。我々、国家元首と首相、計6人が丸一日かけて、条文を練り上げた。最終的に、作業チームの提案した条約案のどの一条も、当初の形では採用されなかった。

 ――しかし、会談後に貴殿は不安げに、「あなた方大国は小国のことをちゃんと考えてくれたのか」と発言したと伝えられているが、同発言の真意は?

 その発言については記憶がない。言うまでもなく、決定はコンセンサスで下さなければならなかった。当然のことながら、欧州の大国で人口5,000万のウクライナや、ユーラシアの大国で人口1.5億のロシアが、人口1,000万のベラルーシの命ずるがままに動いてくれるはずはない。それゆえ、当時も今も、私は客人に対して、あらゆる手段をもって敬意を表してきた。その文脈で、この発言を行うことは考えられる。タルボットは当初、「ベロヴェージ原生林には2人の偉大な政治家が集まった」として、私のことを無視していたが、その後、著書の中でこれについて侘びている。というわけで、私は多くを求めようとは思わない。しかし言っておきたいのは、彼らを招いたのは私だということ。私は、ロシアにベラルーシを独立国と認めさせることに達成した。私には、それ以外のことには特別なこだわりはなかった。私にとって最も肝心なことは、モスクワ抜きで、ベラルーシが自分自身の知能と力で自分の問題を解決できるということだった。そして、ロシアがそれを認めたわけであり、私にとってはそれがこの上なく重要な問題だった。
 さらに言えば、この協定を共和国最高会議で批准する段になった時に、最も進歩的で、民族主義的で、理性的と思われた「ベラルーシ人民戦線」が批准に大反対し、ポズニャクが反対演説をした。その際の理屈は、シュシケヴィチはこの協定の中で、連邦条約に向けた作業をさらに続ける旨の表現を残した、というものだった。

 ――モスクワではなくミンスクがCISの調整機関の所在地になったというのは、当事者達が、CISがなるべく弱い機構になってほしいと願っていたということか?

 否、そういう問題ではない。エリツィンはベラルーシの独立を支持する立場であったことは一度もないと思う。ロシアの政治家は皆帝国主義者だから、ウクライナやベラルーシが独立するということは気に入らない。後日になって、エリツィンは事実上そのことを明言し、その志向が現れた。しかし、ベロヴェージの時点では、エリツィンはゴルバチョフとの問題に決着を付ける必要があった。そして、ロシアでゴルバチョフではなくエリツィンが主人になるためであれば、エリツィンはベラルーシの独立を認めることができた。専らゴルバチョフとの権力闘争に決着をつけるために我々の独立を認めたのであろう。これは妥協の策であり、政治の常套手段。つまり、すぐれて政治的な取引であり、私もクラフチュークもそれを妥協の策と呼ぶことはしなかったが、理解していた。エリツィンはベラルーシもウクライナも独立国だと宣言し、その後ロシア議会がこれを批准した。
 同様に、CISの本部をミンスクに置くのも政治的な落とし所だったのだ。もしもそれをモスクワに保持すると、既存の中央省庁がCISの共通管理機構に横滑りことを主張することになるので、モスクワは除外する必要があった。皆がモスクワではありえないということで合意を見た。私はキエフを提案した。しかし、クラフチュークはそれを政治的に危険と考えたようで、ミンスクの方がいいと言った。エリツィンも、ウクライナ人およびクラフチュークよりはベラルーシ人との方が付き合いやすいと思ったのか、ミンスクの方がいいという考えになったようだ。というわけでミンスクになった。繰り返しになるが、エリツィンが必要としたのは、モスクワの場所を片づけ、自由に連邦省庁を解体し、ロシアのそれをつくること、CISが一切それを邪魔したりしないことだった。ミンスクに関して言えば、単に建物を探すだけの問題だった。
 さらに、CIS執行書記にロシアの代表者を選出することも理に適っていなかった。そこで我々は、事前折衝を経て、次にモスクワで行われた会合で、ベラルーシからの候補者が提案された。

 ――ベロヴェージ会談の三首脳はしばしば、ソ連の破壊者として国民から非難される。

 強調しておきたいが、ソ連は協定より前に事実上崩壊していた。それは管理不能に陥り、ゴルバチョフはソ連を統治していなかった。我々三首脳は、この離婚を円滑化し、「ユーゴスラビア・シナリオ」を回避したというだけでも、善行をなしたと言える。

 ――ベラルーシではウクライナと違って独立を問う国民投票が実施されず、それゆえにあなたの立場が弱くなった。なぜ行われなかったのか。もし行われていたらどんな結果が出たと思うか?

 変革の波の中で、国民投票はベラルーシでもウクライナと同じような結果を残したと思う。なぜ国民投票が行われなかったかというと、実に簡単なことで、それは実施できなかったから。ロシアとウクライナとベラルーシの法制度は根本的に異なっており、ベラルーシの場合、当時の憲法に忠実に沿う限り、国民投票は最高会議の決定にもとづいてしか行えなかった。そうした決定は、あの最高会議では決して通すことができなかった。もしも私がそれを熱烈に主張したら、私はもっと早く解任されていただろう。それが通過不能である以上、その問題を提起するのは無意味だった。
 ベラルーシ人民戦線の活動家の多くは、知識よりも感情が先行するタイプだが、彼らは最高会議の解散に関する国民投票を実施するよう、私に要求した。最高会議が、自分のことを悪いなどとは認めるはずはなく、愚見としか言いようがない。ただ、議長の私としては人民戦線にそういうわけにはいかず、現行の手続きに沿って進めようではないかと言うのが精一杯だった。
 というわけで、国民投票の実施は不可能だった。ベラルーシ最高会議の多数派は親共産派、親ロシア派、つまり反ベラルーシ派で、それから何かベラルーシのためになることを勝ち取ることは不可能だった。しかし、最高会議から何かを取り付けることはでき、それがベロヴェージ協定の批准だった。その審議の議事録を見ると、ベラルーシ人民戦線だけが反対している。他の誰よりもこれを誇りとしているにもかかわらず。他の共産派、等々は皆賛成している。私としては、騙し取ったとは言いたくなく、あくまでも取り付けたのである。私は、我が国の問題は我が国が解決する、連邦条約もしかり、つまりすべてが我々の手中にあるのだと説明した。それは真実だった。それゆえに彼らは賛成した。なまくらだったのはベラルーシ人民戦線であり、最高会議が「我々はだめでしょうか」などと国民に問うはずはないのだから。こういう馬鹿げた話がいっぱいあった。

 ――ルカシェンコは、ベロヴェージ協定の批准に関して、「自分一人が反対した」と主張している。しかし、実は棄権したという説もあり、本当のところはどうなのか?

 ルカシェンコは投票の際に議場にいなかったのだ。それはプロトコールで確認されている。反対は1票だけで、それはチヒニャ氏。チヒニャ氏は反対演説をし、実際にも反対票を投じた。現在は反対派に回っているが。基本的に共産派で、しかも悪い部類のそれだが、憲法裁判所の長官だった時には、立派に振る舞った。いずれにせよ、ルカシェンコは投票の際に 議場におらず、投票に参加していない。嘘というのはルカシェンコの常套手段で、ルカシェンコの側近の間ではそれは善行とされている。


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