むかしあるところに書いた原稿の一部をリサイクルし、私とベラルーシの出会いについて語ってみたいと思います。

 やや私事にわたるが、私とベラルーシという国の出会いについて述べさせていただきたい。私がこの国を初めて訪れたのは、1994年7月のことであった。所属する団体の仕事で、当国の経済事情を調査するのが目的である。ベラルーシ入りする直前、私はモスクワであるロシア人から、最新のニュースを聞かされた。「昨日行われたベラルーシ大統領選挙で、ジリノフスキーのような人が勝ちました。」

 ジリノフスキー氏とは、ロシア自由民主党という極右政党の党首で、そのスキャンダラスな言動はたびたび内外のマスコミを騒がせている。日本で言えばさしづめ……。まあ、言わぬが華だろうか。ただ、ロシア政界でジリノフスキー氏はあくまでも個性派の名脇役といったところであり、現実に政権の座に近付いたことは一度もない。「ジリノフスキーのような人」が本当に大統領になってしまうとは、一体どんな国なのだろうか。私は、まだ見ぬベラルーシに思いを馳せた。

 ところが、実際に行ってみると、季節が良かったこともあって、ベラルーシは平和そのものであった。とても、怖い大統領を選出したばかりの国とは思えない。ちなみに、その怖い大統領はルカシェンコ氏といって、のちに「欧州最後の独裁者」と呼び称されるようになるのだが、その時はまだ国際社会も、私自身も、彼のことをよく知らずにいたのだ。

 初めてのベラルーシで一番驚いたのは、その紙幣である。一応、独自通貨らしきものがすでに導入されていたのだが、子供銀行のお札のようで、デザインには偉人ではなく、何と動物の絵が用いられていた。それに、実際に支払をしようとしたところ、計算がまるで合わない。よく話を聞いてみると、インフレが激しいので、「各紙幣にゼロをひとつ足して読むことにしている」と言うではないか。日本の生真面目な経済専門家3名は、どうすればそんな荒っぽい通貨政策が可能なのかと、ひたすら首をかしげていたのである。

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 「それにしても、何だかよく分からない国だなあ」。夕食前のひととき、私はホテル・プラネータの窓から、首都ミンスクのどこか間延びしたような風景を眺めていた。緯度の高い当国のこと、外はまだ昼間のような明るさである。いくら勤務先の事業対象国の一つであるとはいえ、そんなに何度も来るような国ではない。この風景を目に焼き付けておこうと思った。

 旧ソ連のホテルではだいたい、部屋の壁に昔風のラジオが据え付けられている。それが目に止まったので、何の気なしにスイッチを入れてみた。すると、不意に力強い合唱が耳に飛び込んできた。どうやら、ベラルーシの民謡のようだ。それは、今まで聴いたこともない旋律であり、響きであった。私の知っているロシア民謡とは明らかに異質のものだ。まるで大地から湧き上がってくるようなその歌声を聴いたとたん、窓外の景色すら違って見えてきたから不思議である。

 それから4年後の1998年春、私は在ベラルーシ日本大使館の専門調査員として働くことになった。大使館とホテル・プラネータは隣り合っているので、「目に焼き付けた」はずの風景を、それから3年間も毎日見て暮らすはめになったのである。2001年に日本に帰国して以降も、何度かベラルーシを訪れ、今や同国についての著作なども発表する身になった。


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